東京ステーションギャラリー「甲斐荘楠音の全貌」にいってきた

毎日暑いですね。

 

かといって涼しくなる気配もないので、覚悟を決めて東京ステーションギャラリー「甲斐荘楠音の全貌」にいってきた。

https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202307_kainosho.html

ところで最初は「甲斐荘」だったのが「甲斐庄」に改名したらしいのですがこの展示会だと「甲斐荘」ですね。本人もどっちも使っていたらしいのでどっちでもいいのか。

 

甲斐荘楠音については、ここで説明しなくてもいいかなーと思うんですがざくっと。

明治27年、京都生まれの日本画家で、後半生は映画の時代考証、衣装デザイン等を手掛けました。

代表作は「横櫛」だと思うんだけどこれは岩井志麻子の「ぼっけぇ、きょうてぇ」の表紙になっていたので見たら「あれか」って思う人もいるかもしれない。

 

甲斐荘楠音のことを知ったのは父からだったと思う。展覧会の図録によると1997年に「甲斐荘楠音展」が行われたのをきっかけに再発見、再評価されたので父はその展覧会をみたか評判を聞いたかしたのかもしれない。

その後、地元の美術館の何かの展覧会で、ほかの絵に交じって1枚か2枚の甲斐荘楠音の絵が展示されたのを見た。何とはなしに惹かれるものがあり、その後も日本画がメインの展覧会で1枚2枚でも展示されることがあれば注目して見ていた(ただし作品数は多くない)

ホラー小説の表紙に使われるだけあって、甲斐荘楠音の絵は、なんだかうっすらと怖い。

どこか不安になるような暗い影が差す塗り方のせいか、女の肉のたるみ、化粧の塗りムラを隠すことなく描いてしまうせいか。

それでも「横櫛」などはまだ薄ら怖いがきれいなほうであって「春宵」などはちょっとびっくりしてしまうようなエグみのある花魁の絵で、私は見ていない(残っていないのかもしれない)が「女と風船」は土田麦僊に「穢い絵」と言われて展覧会への陳列を拒否されたということである。(画像をはるわけにもいかないのでまあ適宜探してみてください)

 

甲斐荘楠音の絵は女の絵であっても私には「歌舞伎の女形」のイメージがあった。

しかも、30以前の肌のきれいな、お化粧をすれば少女と見紛うようにきれいに見える若い女形ではなくて、頬の肉がちょっと垂れていて、50代以降の素の姿はゴルフ場によくいそうなおっさん、みたいな女形のイメージだ。

そういう「いや素はおじさんなんだけどな」みたいな人が可憐なお姫様を演じる/演じられる、のが歌舞伎であり、まあ他方批判されるべきところも多々あれど私は歌舞伎のそういうところが好きで、また、赤姫よりも悪女や女伊達を得意とするようなちょっとアクの強い女形が好きである。最近みれてないけど。あっ刀らぶ歌舞伎最高でしたありがとう(余談)

そして私はずっと「甲斐荘楠音の描く女のような女形が好きなんだ」と言っていた。

そういうところで今回の「甲斐荘楠音の全貌」はこれまでほとんど単独で展覧会が構成されることがなかった甲斐荘楠音の作品を横断的に展示してくれて、後半生の業績である映画の衣装デザインも見ることができた。

今まであまり知る機会もなかった(というか絵が好きだといいつつ碌に調べていなかった)甲斐荘楠音についての解説も図録も含めていろいろ読むことができた。

曰く、病弱で5歳まで女児の着物を着ていたとか、歌舞伎やその他の舞台芸術を愛し、芝居をモチーフに絵を描き、京屋(三代目中村雀右衛門)が贔屓で「あんな年配の男がどうしてあんなに美しくなるのか、その不思議を見たかった」と言っていたとか。

そして自身も女形の姿をして写真を撮って、もちろん女性モデルも使ったがそういう写真をもとに絵をかいていたのだとか。

ともかくも最初からの印象の「これは女形だな」というのが答え合わせされたように思ってうれしかった。

展示会のキービジュアルになっている作品は、女が寝そべってる床に屏風の模様らしきものが広がっていて、後ろに無地の金屏風があって、屏風の模様が床に移ったようですこし不思議な感じがあって良かった。日曜美術館の解説でもそんなようなことをいっていた。

デザインされた着物はすごく凝っていて綺麗だった。「旗本退屈男」の衣装デザインが甲斐荘だったそう。

 

女形の格好をした自身をモデルにした、と書いたが女性のモデルを頼んで裸婦なども相当描いており、こういうポーズをしたらどのような線が生まれるか、というところを緻密に検証したスケッチが多数展示されている。

その女性裸婦モデルというのも、当時はまったく一般的ではなかったので、旦那の稼ぎがなくて仕方なく秘密で、というような女性もいた、とキャプションにあった。

さて、甲斐荘楠音の絵には未完の大作があり、その1点が「畜生塚」といわれる屏風絵である。

豊臣秀吉の甥であり後継ぎとされていた豊臣秀次が、秀吉に実子が生まれると紆余曲折ののちに切腹させられ、側室たちもことごとく処刑されたが、その女たちの殺された場所に建てられた塚が「畜生塚」である。その中には最上から嫁いで来たばかりの15歳の駒姫もいた。

それをモチーフにした、処刑される女たちと悲嘆にくれる周りの女たち(中心となる女の周辺は完全にピエタを模している)の図である。若いころに描き始め、最晩年まで描き終わらなかった。無数の女たちは大半が線描のままで、顔が一応塗られているのが二人しかいない。

生涯独身だった甲斐荘自身のセクシャリティについては正直他人には推測するくらいしかできない。ただ、女の悲しみを知る人であったのだろうな。と思う。