ジョン・クロウリー「エンジン・サマー」

「次は何を書こうかねえ」と思いつつちょいちょいブログの存在を忘れていて1年弱立経った。お前はそういうやつだ。まあいいや仕事じゃないんだし。

 

ということでジョン・クロウリーの「エンジン・サマー」の話をします。

ちなみに版元品切れだと思うので読みたいと思った方は図書館などで適宜調達ください。

 

遥かな未来、機械文明が崩壊し、人類は衰退し、かつてあった(我々のような、我々の時点からもはるかに進んだ)機械文明の遺物を利用して小さなコミュニティに分かれ、それぞれ独自の文化を築いている。

かつていた人類は「天使」と呼ばれ、その遺物は今地上に生きる彼らに決して作れない特殊な素材として、例えばステンレススチールは決して錆びない「天使銀」といわれ利用されている。道路はいまも(おそらく北米の)大地を縦横に走っているが、そこを走っていた車は「かつてたくさんの人を殺しかねないにも関わらず使われていた謎の乗り物」扱いである。せやな。

 

その残された人類のうちの一人の少年「しゃべる灯心草(ラッシュ・ザット・スピークス)、は、自分のコミュニティ(リトルべレア)の中で風変わりな少女「一日一度(ワンス・ア・デイ)」に出会い、彼らの伝説にある「聖人」を目指して自分のコミュニティを離れ、長い長い旅に出る。

「聖人」とは彼らの中では物語を語るものであり、一つの物語を通してすべての物語を語るもの、とされている。

 

ちなみにタイトルの「エンジン・サマー」は作中序盤で秋ぐらいに数日訪れる暑い日、ということが示されるためようは「小春日和(インディアン・サマー)」が、「インディアン」という言葉が失われた世界において似たような音の用語でまだ生き残っていた「機械(エンジン)」に置き換えられたものであるのがわかる。

ところで「しゃべる灯心草」とか「まばたき」みたいな名前付けってアメリ先住民族的なのでそれも意識しているんだろう。ジェロニモアパッチ族としての名前はあくびをする人、みたいな。

 

この小説は灯心草が「天使」にこれまでの彼の旅を語る形でつづられる。

少年の世界は同心円を描くようにだんだんと広がっていき、最初のリトルべレアから、リトルべレアの比較的近くにいた「聖人」と言われる老人の家、さらに「ドクター・ブーツのリスト」との暮らし、と広がっていき、それを追いながら「この世界」を読み解いていく読者は最後に、彼と共に遠い遠い遥かな旅路を踏破したことを知る。

これは普遍的な「物語」そのものの流れでもあるし、作中で語られる「聖人の物語」でもあるし、この世界の謎の答えそのものでもある。

(この辺のこと、実際「読書体験」をしないと伝わりにくいなあというところまで含めて絶妙である)

 

読者は「この世界を読み解く」と書いたが、これがなかなか面白いというか、残された人類は、かつての遺物を発掘しながらそこに様々な意味を見出すが、逆に読者はそれが何だったか知っている(なぜならどちらかといえば「天使」に属しているので)。

おそらくアルファベットすら失われている世界の、老ブリンクが必死に解読し「これにはとても重要なことが書いてあると思うんだ」と言っているクロスワードは、我々からしたら単なるパズルで重要なことなど何もないのがわかっている。とか。

 

こういうところ、実にSFであり、灯心草が主人公というより「語り手」であることに大きな意味があり、物語であること、物語を物語ること、についての美しい物語である。