シェイクスピアの同時代人ってリア王をどう思っていたのかなという話
特に結論の出ない話なので「しずかなインターネット」にしようかと思ったがブログの放置も酷いのでこっちに書く。
さて先日、大竹しのぶがリア王を務める「リア王」を見た。演出家はフィリップ・ブリーン。シェイクスピアの四大悲劇に数えられているリア王である。
リア王といえば男性であるので、女性として活動してきている大竹しのぶがやることにどのような意味があるのか、どのように「リア王」が語られなおすのか、と思って興味があったのだが、あまり「なるほどこのために女性を起用したのか」というのはピンとこなかった。
しかし、序盤、周りが止めるのも聞かずに独裁的な決定を下しまくり娘たちに迷惑をかけまくる「有害な男性性」の象徴のようなリア王が、後半、王でもなんでもなく普通に年老いた女性に見えるようになるあたりで「権力ある男性」というガワがはげ落ちた姿なのかなこれは……とも思ったが権力ある男性の鎧を剝ぎ取ったものが女性ということでもない気がしてやはりピンと来ていない。
とはいえ全体の演出としては割と面白く、楽器を演奏する人たちが役者と同じように舞台をうろついているのとかは楽しかった。
それはおいといてリア王の、この「有害な男性性」というやつである。
引退したといいながら権力を振りかざし、100人の荒くれものを率いて娘の屋敷に半分ずつ居候するというがその本音は「俺を引き続き王として扱え」である。
娘からしたらたまったものではない、作中描写されるようにリア王の100人の部下たちは別に品行方正というわけではないらしく、そんなのに100人もいられたらゴリネルたちの城がどんなに広くてもやってられないだろう。
現代の眼でみればリア王の運命(狂気となって荒野をさまようとか娘をなくすとか)はなるほど「悲劇」ではあるのだが「いやでもこの点に関しては上の娘二人の気持ちもわかるしリア王がそこで引退した王らしく大人しくしてりゃよかったよね」となる部分もあるのである。
この辺を例えばイアン・マッケランがリア王をやったNLT版では明らかに認知症の症状として扱っていた。大竹しのぶリア王のブリーン版でも大体そんな解釈なんだろうなという感じであった。
実際のシェイクスピアの書き方がそのように取れるというのもあるし、現代の観客からするとそのほうが飲み込みすい、というのもあるんだろうな、と思う。
リア王じゃないが大河ドラマ「真田丸」の秀吉の晩年の行動も老年性の認知症によるものと描かれていたと思うので、なんというか「ありうる」解釈として理解できる。
ではそのように語られなおすことによって現代人的には「まあギリわかる」になってるリア王だが、シェイクスピアの同時代人の感覚ではどうだったんだろう、と思ってしまうのである。
「王様が王様として扱われたいのは当然なのに上の娘酷い!」だったのか、我々と同じく「いやー上の娘の行動もアレだけどさあ。王様もダメなとこあるよね」だったのか。まあグラデーションあるというか、どっちかというと後者よりなんだろうなとは思うんだけど(普通に劇中でリア王の行動は文句言われてますからね)
王様という存在が身近だったし認知症という病気が当時なかったわけでもないだろうしで「あるあるーなんでか年取ってからこうなる王様いるー」というところもあったかもしれない。
こういう研究ってどっかにありそうだけれども、しかし当時の人が感想文をマメに残してくれたわけでもないだろうし、どうやって調べるんだろう……というのが素朴な疑問であります。
ついでにいうといきなり娘のとこの従者に喧嘩売り始めるケント公(使用人になりすました姿)の行動も見るたびに全然わからん、となる。そこで娘のほうの使い走りともめ事起こす意味ある?貴族でそれなりに有能だったと思われる男がそんなキレる?(話の流れ上必要なのはわかる)
DIC川村記念美術館の思い出
千葉県は佐倉市のDIC川村記念美術館が本日、3/31をもって閉館した。
現在の収蔵品の4分の3を売却し規模を縮小し都内に移動して残った展示をするのだという。企業メセナとは何だ、とか、思うことはないでもないが今は置いておいてここ1年ばかりの縁だった私とDIC川村記念美術館の話でもしようと思う。
DIC川村記念美術館に最初にいったのは去年のゴールデンウイークだった。
チャールズ・シミックの「コーネルの箱」という本を読んだ私がこれ好き!と叫んでいたら、日本ではDIC川村記念美術館がかなりの点数のコーネル作品を所蔵していると教えてもらった。
GWにここいきたいんだよぉーといっていたら友人が付き合ってくれて、作品も無事に見られたし、美術館の建物もいいが広い野原にGWのことでキッチンカーなどが出ていてピクニック気分で楽しかった。
その後、閉鎖ないし移転、という報道があり、気づけば連日大勢が訪れるスポットになってしまった(いうても都内の美術館の混雑ほどではないがアクセスを考えたらかなりすごい)
閉館が決まってから結局3回行った。日に日に人が増えていって当初はホールのステンドグラスは撮影してもよかったのが止められるようになってしまった。
レストランは予約でいっぱいだったしお茶席も朝イチで予約しなければ入れない状態だった。チケットのWEB予約システムも導入されバスも増設していたし、なんで閉館するのにこんな設備投資を…と運営側は思ったかもしれない。
美術館自体もよかったけれども付属の庭がよかった。広々とした芝生の広場は都内の庭園では絶対に視界に入るビルがないただただ広く山に囲まれた場所で、私たちは普段自撮りなんかしないくせに遠くからお互いの写真を撮ってなにがしかの怪異っぽい!といっていた。さえぎるものがなく影がくっきりと出る野原に一人立つ人影って怪異っぽく見えるんですよ。
藤棚、水連と蓮の咲く池、アジサイにハクモクレンを見た。せめて閉館を4月末にしてくれれば桜が見られただろうと思うが、そうしたら本当にすごい人出になってたろうな、とも思う。
現代アートで有名な美術館ではあるがレンブラントもあるしモネもシャガールもピカソもレオナール・フジタもあった。
やはり注目スポットはロスコ・ルームなのだろう。マーク・ロスコの作品のためだけに作られた部屋、薄暗い変形七角形の部屋の中に全体としては赤黒い色調の作品が7枚。
私は部屋に入ってふっと振り返ったときに見える一番小さく、緑が一番強く出ている一枚が好きだな、と思っていた。しかしみるたびに印象が少しずつ異なっていて、4回目に行ってみたときに、そのうちの一枚に、そこにその絵があるのにいま初めて気が付いた、というような印象を覚えたのが記憶に残っている。
マーク・ロスコという作家は自分の作品の飾られる高さや部屋の照明等にもこだわり、また他の作家の作品と並べられて飾られることを嫌い自分の作品だけが飾られる部屋を望んでいたという。しかしそんな部屋は生前実現せず、その彼の死後に作られたのが、このロスコ・ルームだというのを最後に参加したガイドツアーで聞いた。
後述するがこの美術館は「あえて説明を付けない」のだが、知識があったらあったで面白いよな、と最後にガイドツアーに参加できてよかったと思う。
コーネルの箱は最終的に収蔵しているものを全部見ることができた。粗末な木箱に無造作に配置された(ように見える)写真の切り抜きやボール、オルゴール、割れたグラス、砂。そこから物語が立ち上るような小さな空間は劇団四季がやった「思い出を売る男」の主人公の男(つまりは思い出売りの男だ)が、「このガード下の何の変哲もない灰色の壁こそが思い出を売るのに最高の場所なんです。皆この壁に過去の自分の思い出の幻を見るのです」というようなセリフを言っていたのを思い出した。
最後の企画展だった「西川勝人 静寂の響き」もよかった。かつてはある特定の作品のために作られた両サイドがガラス張りで外光が入る部屋にいろいろな色のアクリルを重ねたプレートが規則正しく並べられている作品があって、私たちはこれを「羊羹だ」「羊羹だ」「これは抹茶味だ」といって見ていた。
同じ部屋にガラスで作られた鬼灯もあって、外から差し込む光がその時々で違った影を落として美しかった。
芸術作品を鑑賞するのに羊羹というのもどうよ、というものではあるが、最後のコレクション展に行き、エピローグと題した美術館からのメッセージを見て、それでいいんだな、と思った。
曰く、DIC川村記念美術館ではあえて作品に説明を付けませんでした。それは説明等に左右されることなくお客様が作品と向き合い、自分と向き合ってもらうためのものです。
そんな文章だったと思う。
羊羹でもいい、灰色のガード下の壁を見るのでもいい、見るたびに前と違った印象を持ってもいい。さえぎるもののない自然の中で、そうしてください、そのために私たちはここにいました。ここで、35年やってきました。
そんなメッセージだと思った。
六本木も一回くらい行くかなと思うけど、多分ここより気に入ることはないかな、と思う。
DIC川村記念美術館。いい場所だった。ありがとうございました。
アンディ・ウィアー「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(ネタバレ感想)
プロジェクト・ヘイル・メアリーを読みました。
何故か発売当初から「すごい!すごいけどネタバレを踏む前に読んで!」と言われ本当に一切公式のあらすじ以上の情報が入ってこず、さらに映画化されるということで「映像化されたら予告でネタバレされるから読んで!」というのがSNSで回ってきて「そ、そんなにネタバレ厳禁なのか…」と思っていたが、みんなの自重が効きすぎていて「まずどういう話かくらいは知りたい」というタイプである私はまったく読む気が起きなかったが、なんとなく図書館の予約リストに放り込んで、半年はたっぷり待っただろうか、順番が来た。
じゃあ、読むか……
ということでこの後からネタバレです。何も配慮しません。
JAXAからの報告で、太陽の光度が減っている、ということが判明!原因は「太陽エネルギーを食べる」アストロファージという謎の微生物だ!それが判ってから調べてみれば、他の恒星も軒並み光度が落ちている=アストロファージに感染していることがわかった。
太陽エネルギーが何パーセントかでも減ったら地球の生態系は大打撃!対策のカギは、何故かアストロファージに感染していない恒星タウにある!
…いやなんぼネタバレ踏まない方がいいといったってこの辺までは言ってくれてもいいんだけど…と思ったけど私はかなりネタバレに対してガバな方なのでどうなんだろう。
それは片道切符の特攻任務である、この辺で「アンディ・ウィアーが本気で特攻美しいなんて話書かないだろうから帰れるんだろうな」というメタ推理をしていた。
まあメタ推理はいったん置いといても、ここで上手いのが物語を動かす「謎」として「アストロファージ対策はどうなるのか」のほかに「何故、どのような経緯で彼はこの片道切符の旅に志願したのか」が用意されていることだと思う。
また、読んでる途中でブルスカで
『「情報公開を徐々にかつ任意の順番でやるために主人公の頭を一回ポンコツにします」ってのはなんかハイローザ戦*1の「主人公が軍師タイプで正常に機能してしまうと話が解決してしまい、ハイローとして乱戦に突入できないのでまずは呪いでポンコツにします」みたいなワザを思い出す。』
と言っていたが、まさにこの手法で主人公のグレース博士は「かつて自分がやった、選んだはずのことなのに何故なのかわからない」状態になっており、後からそれを思い出したり推定するしかない、一人で探偵かつ犯人をやっていることになる。
知ってるのに読者に言わない(というか回想しない)のはおかしいが「長期の昏睡の後遺症で忘れている」なら思い出す順番は作者の意のままである。上手い手だなあ。
そして「地球を救うためなら鬼にも蛇にもなる」という最高責任者のストラットに無理やり送り出されただけだと判明するんだが、そのころにはもう(彼女の狙い通り)恨み言どころではなくなっているあたり、カラッとしたウィアーっぽさがある。
そして宇宙で出会う「たった一人の冴えた相棒」ことロッキー、ロッキーかわいいね、と思うが翻訳機械の都合で片言のように見えるからそう思うだけのような気もする。人間ってそういうところある。
「たった一人の冴えた相棒」は下巻の公式キャッチコピーだったのだが、これも上手いな、と思って読んでいた。当然ながら「たった一つの冴えたやりかた」のもじりなのだが、あの話も宇宙でたった一人の少女と異星人が一蓮托生で運命と戦う話だった。オチは全然好きじゃないですけど。
ところで別の作品の話ですがスター・トレックこと宇宙大作戦に「地底怪獣ホルタ」という回があり、私は割とあの話が好きでした。地球の動物がベースにしている炭素と同じく「腕」が4本あるケイ素をベースにした、人間には岩石のようにしか見えない生物がいるのではないか、というのはロマンだと思う。
あとホルタを治療してくれ!といわれて「私は医者で左官ではない!」と愚痴るマッコイが好き。でも「ホルタを治療するにはセメント」ってなるのが「こういう生物だからこういうのが治療になるはず」というSF的な想像力があって良かった。
なのでロッキーの存在にはとても楽しくなってしまった。「音で見る」タイプの生物とどのように意思疎通し会話できるようにしていくのかの過程も楽しい。
そして、あらゆるものが「違う」生物と、手を取り合って、お互いの故郷を救おうとし、命を賭けるほどの友情を築くのは、本当に、シンプルに「美しい話だ」と思った。
途中で「これどっちかが抜け駆けしてタウメーバや宇宙船持ち逃げしたりとかしたらどうなるかなあ、アンディ・ウィアーだからやらんだろうな」と思ってたが(メタ推理やめな)
そもそもどちらも相手の協力なしには生きて帰れず「協力するのが最適解」という話でしかない。理性で考えればそうなる。
そして、グレース博士が報告を受けた「地球ではビートルが到着してからほとんど最速で対策を打ったと思われる」というところから考えるに、ストラットが「資源が少なくなれば誰も協力等しない、戦争が起きるだろう」と言った地球でも、同じことが起きたのかもしれないなと思う。人類は、理性で闘争を押さえ、いつでも対策が打てるための資源を温存し、協力して生き延びてビートルを待ち続けたのではないか。
この断絶の時代に、このプロジェクト・ヘイル・メアリーは、やはり美しい話だと思う。
ところで宇宙人が出ていて地球上にないスーパー物質(キセノナイトとか)が出てるのに終盤にストラットが出してきた「記憶を一定期間さかのぼって消せる薬」が一番「うわあご都合アイテム」と思った。人間のリアリティライン判定って面白いですね。
東京ステーションギャラリー「甲斐荘楠音の全貌」にいってきた
毎日暑いですね。
かといって涼しくなる気配もないので、覚悟を決めて東京ステーションギャラリー「甲斐荘楠音の全貌」にいってきた。
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202307_kainosho.html
ところで最初は「甲斐荘」だったのが「甲斐庄」に改名したらしいのですがこの展示会だと「甲斐荘」ですね。本人もどっちも使っていたらしいのでどっちでもいいのか。
甲斐荘楠音については、ここで説明しなくてもいいかなーと思うんですがざくっと。
明治27年、京都生まれの日本画家で、後半生は映画の時代考証、衣装デザイン等を手掛けました。
代表作は「横櫛」だと思うんだけどこれは岩井志麻子の「ぼっけぇ、きょうてぇ」の表紙になっていたので見たら「あれか」って思う人もいるかもしれない。
甲斐荘楠音のことを知ったのは父からだったと思う。展覧会の図録によると1997年に「甲斐荘楠音展」が行われたのをきっかけに再発見、再評価されたので父はその展覧会をみたか評判を聞いたかしたのかもしれない。
その後、地元の美術館の何かの展覧会で、ほかの絵に交じって1枚か2枚の甲斐荘楠音の絵が展示されたのを見た。何とはなしに惹かれるものがあり、その後も日本画がメインの展覧会で1枚2枚でも展示されることがあれば注目して見ていた(ただし作品数は多くない)
ホラー小説の表紙に使われるだけあって、甲斐荘楠音の絵は、なんだかうっすらと怖い。
どこか不安になるような暗い影が差す塗り方のせいか、女の肉のたるみ、化粧の塗りムラを隠すことなく描いてしまうせいか。
それでも「横櫛」などはまだ薄ら怖いがきれいなほうであって「春宵」などはちょっとびっくりしてしまうようなエグみのある花魁の絵で、私は見ていない(残っていないのかもしれない)が「女と風船」は土田麦僊に「穢い絵」と言われて展覧会への陳列を拒否されたということである。(画像をはるわけにもいかないのでまあ適宜探してみてください)
甲斐荘楠音の絵は女の絵であっても私には「歌舞伎の女形」のイメージがあった。
しかも、30以前の肌のきれいな、お化粧をすれば少女と見紛うようにきれいに見える若い女形ではなくて、頬の肉がちょっと垂れていて、50代以降の素の姿はゴルフ場によくいそうなおっさん、みたいな女形のイメージだ。
そういう「いや素はおじさんなんだけどな」みたいな人が可憐なお姫様を演じる/演じられる、のが歌舞伎であり、まあ他方批判されるべきところも多々あれど私は歌舞伎のそういうところが好きで、また、赤姫よりも悪女や女伊達を得意とするようなちょっとアクの強い女形が好きである。最近みれてないけど。あっ刀らぶ歌舞伎最高でしたありがとう(余談)
そして私はずっと「甲斐荘楠音の描く女のような女形が好きなんだ」と言っていた。
そういうところで今回の「甲斐荘楠音の全貌」はこれまでほとんど単独で展覧会が構成されることがなかった甲斐荘楠音の作品を横断的に展示してくれて、後半生の業績である映画の衣装デザインも見ることができた。
今まであまり知る機会もなかった(というか絵が好きだといいつつ碌に調べていなかった)甲斐荘楠音についての解説も図録も含めていろいろ読むことができた。
曰く、病弱で5歳まで女児の着物を着ていたとか、歌舞伎やその他の舞台芸術を愛し、芝居をモチーフに絵を描き、京屋(三代目中村雀右衛門)が贔屓で「あんな年配の男がどうしてあんなに美しくなるのか、その不思議を見たかった」と言っていたとか。
そして自身も女形の姿をして写真を撮って、もちろん女性モデルも使ったがそういう写真をもとに絵をかいていたのだとか。
ともかくも最初からの印象の「これは女形だな」というのが答え合わせされたように思ってうれしかった。
展示会のキービジュアルになっている作品は、女が寝そべってる床に屏風の模様らしきものが広がっていて、後ろに無地の金屏風があって、屏風の模様が床に移ったようですこし不思議な感じがあって良かった。日曜美術館の解説でもそんなようなことをいっていた。
デザインされた着物はすごく凝っていて綺麗だった。「旗本退屈男」の衣装デザインが甲斐荘だったそう。
女形の格好をした自身をモデルにした、と書いたが女性のモデルを頼んで裸婦なども相当描いており、こういうポーズをしたらどのような線が生まれるか、というところを緻密に検証したスケッチが多数展示されている。
その女性裸婦モデルというのも、当時はまったく一般的ではなかったので、旦那の稼ぎがなくて仕方なく秘密で、というような女性もいた、とキャプションにあった。
さて、甲斐荘楠音の絵には未完の大作があり、その1点が「畜生塚」といわれる屏風絵である。
豊臣秀吉の甥であり後継ぎとされていた豊臣秀次が、秀吉に実子が生まれると紆余曲折ののちに切腹させられ、側室たちもことごとく処刑されたが、その女たちの殺された場所に建てられた塚が「畜生塚」である。その中には最上から嫁いで来たばかりの15歳の駒姫もいた。
それをモチーフにした、処刑される女たちと悲嘆にくれる周りの女たち(中心となる女の周辺は完全にピエタを模している)の図である。若いころに描き始め、最晩年まで描き終わらなかった。無数の女たちは大半が線描のままで、顔が一応塗られているのが二人しかいない。
生涯独身だった甲斐荘自身のセクシャリティについては正直他人には推測するくらいしかできない。ただ、女の悲しみを知る人であったのだろうな。と思う。
カルミネア・アバーテ「海と山のオムレツ」
皆さん、食べるの好きですか。私はあんまり!(お腹弱い)
と、元気に言うことじゃないのだが、小説の美味しそうな食べ物の描写なんかは割と好きだ。
クリスティの「バートラム・ホテルにて」のバートラム・ホテルで出される「本物のドーナツ」「本物のシードケーキ」「ブリキのコップで型をとったコチコチ茹でのではない、ふっくらした割り落としの卵」等、バートラム・ホテルが(ネタバレ削除)であっても泊まって食べてみたいくらいであるし、泉鏡花の「眉隠しの霊」の旅館の食事は日本文学の中でも屈指の美味しそうさだと思うのでちょっと引用します。
さて膳だが、――蝶脚の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、椀が真白な半ぺんの葛かけ。皿についたのは、このあたりで佳品と聞く、鶫を、何と、頭を猪口に、股をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして芳しくつけてあった。
あ、旅館ご飯の描写はここだけではないのでなんなら青空文庫にあるので読んどいてください。
泉鏡花本人はとにかく病的な潔癖症で「湯豆腐もグラグラと煮て食べる」くらいだったらしいので、よく書いたな、と思わなくもないが、よく見ると生ものがないのはそのせいだろうか。(この旅館は木曽街道なので、当時の輸送事情からしたら今のように刺身が出てくるわけもないが)
ということで「なんかもう全編何か食べてるな」という一冊である。身もふたもないが本当なんだ。
南イタリア・カラブリア州出身の作者の子供時代から、大学を出て教員になり結婚し…という半生を追いつつその都度その都度、土地の料理を、家族やその土地の人々と食べる描写を交えてつづっている。
(一人で食べるのが耐えられなくて食堂でも常に相席を探している、というあたり生来人恋しい人なのだろう)
その中でも少年の日に食べて心に残り最後の結婚式にもまた登場するのが「アルベリアのシェフ」のシュトリーデラットだ。
アルベリアのシェフが手を叩くと五人の女性が現れて、湯気の立つ大きなトレーに盛られたシュトリーデラットを運んできた。白隠元豆とオリーヴオイル、大蒜、トウガラシ、パプリカのソースをからめた自家製のパスタだ。頬が落ちそうなほどおいしいシュトリーデラットで、僕は父に負けじと二人前をぺろりと平らげた。
こんな描写が都度都度入って物語は続く。
「アルベリア」というのは南イタリアに点在するアルバニア系イタリア人の五十ほどの共同体の総称らしい。彼らの村はイタリアでも特に激辛料理を好むらしく、唐辛子を添えられたものがとても多い。
そこには一律に「イタリア料理」と言ってしまうよりもう少し解像度の高い、イタリアのある地方の豊饒な食の世界が展開されている。
とはいえ村で母の美味しい手作り料理を食べていればよい少年時代は過ぎ去り、大資本家に搾取され村の稼ぎだけでは食べていけない、という父はドイツに出稼ぎに行く。少年もまた、父についてドイツで働き、偶然見つけた「アンナ・カレーニナ」の本から文学に目覚め、親の「何とかして息子に高等教育を受けさせたい」という希望のままに大学へ行く。
ドイツに行けばドイツ料理を、イタリアでも別の地方に行けばその地方の料理を食べて暮らす。それだけと言えばそれだけではあるが、三都市をまたがって移動する彼は自分の郷土の味にその土地その土地の味覚を加えて世界をひろげていく。
ドイツ人の恋人を妻とし(名前を言ってくれてもよかったのだが?)ドイツとイタリアの中間地点で結婚式を挙げる。
アルベリアのシェフは言う。
大切なのは、自分たちの土地の味に、新たな味を加えていくことだ。根っこの部分に郷里の味があるかぎり、べつの場所で暮らしていても、その土くれの香りは失われないはずだ
自分の生まれ故郷のものは美味しい(それで育ってるのだから当然だ)、知らない土地の料理も、またその土地の誰かの生まれ故郷の料理である。
その土くれの香りをどこかに残したまま、人は移動し、違う土くれの香りのする誰かと一緒に食事をし、別れたり、別れなかったりする。
あーー!そんな世界早いとこ戻らないかなあ!(大の字)
献血の話をしよう
最近、というか完全にここ2年程だが、割とよく献血ルームに行く。
といっても、だいたい3回に1回くらいは「今日はお休みですね(採れませんよ)」と言われるだろうか。献血とは実は狭き門である。
以下公式リンクを見るとわかるが
海外渡航歴とか、輸血歴とかで生涯献血できない人もいるし、その辺の条件がクリアされたとしても、血色素量(ヘモグロビン値)でアウト、とか当日、何故か脈拍が高く何度か測りなおしてもらっても全然下がらずアウト、とかいろいろある。
もちろん、病気レベルではなく、大体「日常生活に問題があるわけではないんですけど、献血って余った血をいただくものなので」と言われる。
それにそもそも注射が苦手という人もいるだろう。
ですので、できない人、普通によくあるので気にすることないです。私ができるときにやっときます。何なら私も割と頻繁にできないです。
で、「今日はお休みね!」とマイルドに言ってもらえるのはいいが採血まで献血ルームの人の手を煩わせたのに献血できない……というのは少々へこむし、そのために献血から遠ざかっていた部分もある。
が、ここにきてCOVID-19の流行である。
流行り病で人間が外出しなくなったとしても、事故や病気がなくなるわけでもなく手術をしないわけでもない。血液が足りません、と言われたら、では「とりあえず元気で、過去に献血できた履歴もある」人間が血を献じにまいりましょうぞ、となった。そんなもんですきっかけなんて。
が、400ml全血は一番基準が厳しい。最近は200mlはほとんど実施していない。採血までしてがっかりするのはちょっと嫌だ。ということで、成分献血予約をすることにした。
成分献血は基準が一番ゆるい。一度血液を採ってから血漿をろ過して赤血球部分は体内に戻すため、体への負担も少ない。次回献血できるまでの期間も短い。
が、1回あたり70分くらいかかるので時間を確保していかないといけないし、そうすると休みが土日の勤め人としては土日に、となるが都市部の土日の成分献血枠はすぐ埋まる。
そもそも成分用の専用ベッドの台数が限られているらしいので一日にできる人数が全血よりかなり少ないのだろう。何週間も先の土日に予約を入れ、それまで多少心がけて鉄分の多そうな食事をする。
当日になって受付をするとすぐスポドリを渡される。とにかく全力で水分を取れ、といわれる。言われるがままに飲む。
問診やいくつかのチェックの後に検査採血となるが、とにかくこれまで「基準値に足りない」と言われた回数が多すぎて検査の結果が出てくるまでドキドキしているので、OKです、となるとめちゃくちゃホッとする。
なんでわざわざそんなスリルを味わっているのかとほんの少し思う。
献血できます、となったら成分献血用のベッドに寝て、採血となるが、その際とにかく体を温められる(特に冬場は)。身体が冷えれば血の出が悪くなり時間がかかるし、もちろん身体にもよくないのだろう。手にカイロ、腹に湯たんぽ、身体にブランケット、みたいな手厚さである。
体調や手先のしびれなどないかもこまめに確認してくれる。
血を取って、戻して、のサイクルで袋に薄黄色い血漿がたまっていくのがわかる。治りかけた傷からしみてくるアレです。なるほど、アレを集めているのか。と思う。
(ちなみに成分献血には血漿だけを集めるのと血小板も集めるのがある。私は「いい血小板ですね!」といわれて血小板献血をおすすめされたことがある。いい血小板とは……)
終わりです、といわれて受付をする部屋に戻る。
そこでもとにかく水分をとってください、最低このくらいは休んで行ってください。と言われるので、献血が終わるともらえるアイスを食べて適当に自販機の飲み物を飲んで、ぼんやり周りの人を見る。
カップルや友人同士で来ている人、職員さんに「今回〇(←すごい数字)回目ですねー!」と言われている献血ガチ勢。
ガタイのいい男性は「そりゃー貴方は貧血ではじかれる心配ないだろうな!(偏見)」と思うし、ダメでしたー、と帰っていく人は「その気持ちわかるぜ……」と思う。
しかし、この部屋にいる様々な属性の十数人の人にとって、別に献血ルームでもらえるお菓子だとか、ノベルティだとか、漫画が読めるとか、が「わざわざ時間を取ってルームに出向き、病気でもない自分の身体に針を刺し、最大400mlの血液を抜き取る」に替わる代償というわけではないだろう。ルームの人にとにかく感謝と気遣いをされるので自己肯定感上がっておすすめ!みたいなツイートを見たこともあるし、金のかからない時間つぶし、という側面もあるだろうが。そのために血を抜くかは?って話である。
「これが善意でなくて何なのか」と思う。窓際でスマホをいじっているおじさんも、てんでに漫画を読んでいるカップルも、まぎれもなく善意の人である。
それを言うなら私のこの「ないと言うならあげに行こう」というのも、あえて名付けるとしたら善意なのだろう。
それをもって人間素晴らしい!などと言う気はなく、ただ、この場にいる人たちは普段は他所で何をしているにしろ、誰か必要としている人のために血を提供しにきたという善意によって共通しているんだな、とぼんやりと思うのが、私の献血の楽しみなのかもしれない。
ジョン・クロウリー「エンジン・サマー」
「次は何を書こうかねえ」と思いつつちょいちょいブログの存在を忘れていて1年弱立経った。お前はそういうやつだ。まあいいや仕事じゃないんだし。
ということでジョン・クロウリーの「エンジン・サマー」の話をします。
ちなみに版元品切れだと思うので読みたいと思った方は図書館などで適宜調達ください。
遥かな未来、機械文明が崩壊し、人類は衰退し、かつてあった(我々のような、我々の時点からもはるかに進んだ)機械文明の遺物を利用して小さなコミュニティに分かれ、それぞれ独自の文化を築いている。
かつていた人類は「天使」と呼ばれ、その遺物は今地上に生きる彼らに決して作れない特殊な素材として、例えばステンレススチールは決して錆びない「天使銀」といわれ利用されている。道路はいまも(おそらく北米の)大地を縦横に走っているが、そこを走っていた車は「かつてたくさんの人を殺しかねないにも関わらず使われていた謎の乗り物」扱いである。せやな。
その残された人類のうちの一人の少年「しゃべる灯心草(ラッシュ・ザット・スピークス)、は、自分のコミュニティ(リトルべレア)の中で風変わりな少女「一日一度(ワンス・ア・デイ)」に出会い、彼らの伝説にある「聖人」を目指して自分のコミュニティを離れ、長い長い旅に出る。
「聖人」とは彼らの中では物語を語るものであり、一つの物語を通してすべての物語を語るもの、とされている。
ちなみにタイトルの「エンジン・サマー」は作中序盤で秋ぐらいに数日訪れる暑い日、ということが示されるためようは「小春日和(インディアン・サマー)」が、「インディアン」という言葉が失われた世界において似たような音の用語でまだ生き残っていた「機械(エンジン)」に置き換えられたものであるのがわかる。
ところで「しゃべる灯心草」とか「まばたき」みたいな名前付けってアメリカ先住民族的なのでそれも意識しているんだろう。ジェロニモのアパッチ族としての名前はあくびをする人、みたいな。
この小説は灯心草が「天使」にこれまでの彼の旅を語る形でつづられる。
少年の世界は同心円を描くようにだんだんと広がっていき、最初のリトルべレアから、リトルべレアの比較的近くにいた「聖人」と言われる老人の家、さらに「ドクター・ブーツのリスト」との暮らし、と広がっていき、それを追いながら「この世界」を読み解いていく読者は最後に、彼と共に遠い遠い遥かな旅路を踏破したことを知る。
これは普遍的な「物語」そのものの流れでもあるし、作中で語られる「聖人の物語」でもあるし、この世界の謎の答えそのものでもある。
(この辺のこと、実際「読書体験」をしないと伝わりにくいなあというところまで含めて絶妙である)
読者は「この世界を読み解く」と書いたが、これがなかなか面白いというか、残された人類は、かつての遺物を発掘しながらそこに様々な意味を見出すが、逆に読者はそれが何だったか知っている(なぜならどちらかといえば「天使」に属しているので)。
おそらくアルファベットすら失われている世界の、老ブリンクが必死に解読し「これにはとても重要なことが書いてあると思うんだ」と言っているクロスワードは、我々からしたら単なるパズルで重要なことなど何もないのがわかっている。とか。
こういうところ、実にSFであり、灯心草が主人公というより「語り手」であることに大きな意味があり、物語であること、物語を物語ること、についての美しい物語である。