カルミネア・アバーテ「海と山のオムレツ」
皆さん、食べるの好きですか。私はあんまり!(お腹弱い)
と、元気に言うことじゃないのだが、小説の美味しそうな食べ物の描写なんかは割と好きだ。
クリスティの「バートラム・ホテルにて」のバートラム・ホテルで出される「本物のドーナツ」「本物のシードケーキ」「ブリキのコップで型をとったコチコチ茹でのではない、ふっくらした割り落としの卵」等、バートラム・ホテルが(ネタバレ削除)であっても泊まって食べてみたいくらいであるし、泉鏡花の「眉隠しの霊」の旅館の食事は日本文学の中でも屈指の美味しそうさだと思うのでちょっと引用します。
さて膳だが、――蝶脚の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、椀が真白な半ぺんの葛かけ。皿についたのは、このあたりで佳品と聞く、鶫を、何と、頭を猪口に、股をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして芳しくつけてあった。
あ、旅館ご飯の描写はここだけではないのでなんなら青空文庫にあるので読んどいてください。
泉鏡花本人はとにかく病的な潔癖症で「湯豆腐もグラグラと煮て食べる」くらいだったらしいので、よく書いたな、と思わなくもないが、よく見ると生ものがないのはそのせいだろうか。(この旅館は木曽街道なので、当時の輸送事情からしたら今のように刺身が出てくるわけもないが)
ということで「なんかもう全編何か食べてるな」という一冊である。身もふたもないが本当なんだ。
南イタリア・カラブリア州出身の作者の子供時代から、大学を出て教員になり結婚し…という半生を追いつつその都度その都度、土地の料理を、家族やその土地の人々と食べる描写を交えてつづっている。
(一人で食べるのが耐えられなくて食堂でも常に相席を探している、というあたり生来人恋しい人なのだろう)
その中でも少年の日に食べて心に残り最後の結婚式にもまた登場するのが「アルベリアのシェフ」のシュトリーデラットだ。
アルベリアのシェフが手を叩くと五人の女性が現れて、湯気の立つ大きなトレーに盛られたシュトリーデラットを運んできた。白隠元豆とオリーヴオイル、大蒜、トウガラシ、パプリカのソースをからめた自家製のパスタだ。頬が落ちそうなほどおいしいシュトリーデラットで、僕は父に負けじと二人前をぺろりと平らげた。
こんな描写が都度都度入って物語は続く。
「アルベリア」というのは南イタリアに点在するアルバニア系イタリア人の五十ほどの共同体の総称らしい。彼らの村はイタリアでも特に激辛料理を好むらしく、唐辛子を添えられたものがとても多い。
そこには一律に「イタリア料理」と言ってしまうよりもう少し解像度の高い、イタリアのある地方の豊饒な食の世界が展開されている。
とはいえ村で母の美味しい手作り料理を食べていればよい少年時代は過ぎ去り、大資本家に搾取され村の稼ぎだけでは食べていけない、という父はドイツに出稼ぎに行く。少年もまた、父についてドイツで働き、偶然見つけた「アンナ・カレーニナ」の本から文学に目覚め、親の「何とかして息子に高等教育を受けさせたい」という希望のままに大学へ行く。
ドイツに行けばドイツ料理を、イタリアでも別の地方に行けばその地方の料理を食べて暮らす。それだけと言えばそれだけではあるが、三都市をまたがって移動する彼は自分の郷土の味にその土地その土地の味覚を加えて世界をひろげていく。
ドイツ人の恋人を妻とし(名前を言ってくれてもよかったのだが?)ドイツとイタリアの中間地点で結婚式を挙げる。
アルベリアのシェフは言う。
大切なのは、自分たちの土地の味に、新たな味を加えていくことだ。根っこの部分に郷里の味があるかぎり、べつの場所で暮らしていても、その土くれの香りは失われないはずだ
自分の生まれ故郷のものは美味しい(それで育ってるのだから当然だ)、知らない土地の料理も、またその土地の誰かの生まれ故郷の料理である。
その土くれの香りをどこかに残したまま、人は移動し、違う土くれの香りのする誰かと一緒に食事をし、別れたり、別れなかったりする。
あーー!そんな世界早いとこ戻らないかなあ!(大の字)
献血の話をしよう
最近、というか完全にここ2年程だが、割とよく献血ルームに行く。
といっても、だいたい3回に1回くらいは「今日はお休みですね(採れませんよ)」と言われるだろうか。献血とは実は狭き門である。
以下公式リンクを見るとわかるが
海外渡航歴とか、輸血歴とかで生涯献血できない人もいるし、その辺の条件がクリアされたとしても、血色素量(ヘモグロビン値)でアウト、とか当日、何故か脈拍が高く何度か測りなおしてもらっても全然下がらずアウト、とかいろいろある。
もちろん、病気レベルではなく、大体「日常生活に問題があるわけではないんですけど、献血って余った血をいただくものなので」と言われる。
それにそもそも注射が苦手という人もいるだろう。
ですので、できない人、普通によくあるので気にすることないです。私ができるときにやっときます。何なら私も割と頻繁にできないです。
で、「今日はお休みね!」とマイルドに言ってもらえるのはいいが採血まで献血ルームの人の手を煩わせたのに献血できない……というのは少々へこむし、そのために献血から遠ざかっていた部分もある。
が、ここにきてCOVID-19の流行である。
流行り病で人間が外出しなくなったとしても、事故や病気がなくなるわけでもなく手術をしないわけでもない。血液が足りません、と言われたら、では「とりあえず元気で、過去に献血できた履歴もある」人間が血を献じにまいりましょうぞ、となった。そんなもんですきっかけなんて。
が、400ml全血は一番基準が厳しい。最近は200mlはほとんど実施していない。採血までしてがっかりするのはちょっと嫌だ。ということで、成分献血予約をすることにした。
成分献血は基準が一番ゆるい。一度血液を採ってから血漿をろ過して赤血球部分は体内に戻すため、体への負担も少ない。次回献血できるまでの期間も短い。
が、1回あたり70分くらいかかるので時間を確保していかないといけないし、そうすると休みが土日の勤め人としては土日に、となるが都市部の土日の成分献血枠はすぐ埋まる。
そもそも成分用の専用ベッドの台数が限られているらしいので一日にできる人数が全血よりかなり少ないのだろう。何週間も先の土日に予約を入れ、それまで多少心がけて鉄分の多そうな食事をする。
当日になって受付をするとすぐスポドリを渡される。とにかく全力で水分を取れ、といわれる。言われるがままに飲む。
問診やいくつかのチェックの後に検査採血となるが、とにかくこれまで「基準値に足りない」と言われた回数が多すぎて検査の結果が出てくるまでドキドキしているので、OKです、となるとめちゃくちゃホッとする。
なんでわざわざそんなスリルを味わっているのかとほんの少し思う。
献血できます、となったら成分献血用のベッドに寝て、採血となるが、その際とにかく体を温められる(特に冬場は)。身体が冷えれば血の出が悪くなり時間がかかるし、もちろん身体にもよくないのだろう。手にカイロ、腹に湯たんぽ、身体にブランケット、みたいな手厚さである。
体調や手先のしびれなどないかもこまめに確認してくれる。
血を取って、戻して、のサイクルで袋に薄黄色い血漿がたまっていくのがわかる。治りかけた傷からしみてくるアレです。なるほど、アレを集めているのか。と思う。
(ちなみに成分献血には血漿だけを集めるのと血小板も集めるのがある。私は「いい血小板ですね!」といわれて血小板献血をおすすめされたことがある。いい血小板とは……)
終わりです、といわれて受付をする部屋に戻る。
そこでもとにかく水分をとってください、最低このくらいは休んで行ってください。と言われるので、献血が終わるともらえるアイスを食べて適当に自販機の飲み物を飲んで、ぼんやり周りの人を見る。
カップルや友人同士で来ている人、職員さんに「今回〇(←すごい数字)回目ですねー!」と言われている献血ガチ勢。
ガタイのいい男性は「そりゃー貴方は貧血ではじかれる心配ないだろうな!(偏見)」と思うし、ダメでしたー、と帰っていく人は「その気持ちわかるぜ……」と思う。
しかし、この部屋にいる様々な属性の十数人の人にとって、別に献血ルームでもらえるお菓子だとか、ノベルティだとか、漫画が読めるとか、が「わざわざ時間を取ってルームに出向き、病気でもない自分の身体に針を刺し、最大400mlの血液を抜き取る」に替わる代償というわけではないだろう。ルームの人にとにかく感謝と気遣いをされるので自己肯定感上がっておすすめ!みたいなツイートを見たこともあるし、金のかからない時間つぶし、という側面もあるだろうが。そのために血を抜くかは?って話である。
「これが善意でなくて何なのか」と思う。窓際でスマホをいじっているおじさんも、てんでに漫画を読んでいるカップルも、まぎれもなく善意の人である。
それを言うなら私のこの「ないと言うならあげに行こう」というのも、あえて名付けるとしたら善意なのだろう。
それをもって人間素晴らしい!などと言う気はなく、ただ、この場にいる人たちは普段は他所で何をしているにしろ、誰か必要としている人のために血を提供しにきたという善意によって共通しているんだな、とぼんやりと思うのが、私の献血の楽しみなのかもしれない。
ジョン・クロウリー「エンジン・サマー」
「次は何を書こうかねえ」と思いつつちょいちょいブログの存在を忘れていて1年弱立経った。お前はそういうやつだ。まあいいや仕事じゃないんだし。
ということでジョン・クロウリーの「エンジン・サマー」の話をします。
ちなみに版元品切れだと思うので読みたいと思った方は図書館などで適宜調達ください。
遥かな未来、機械文明が崩壊し、人類は衰退し、かつてあった(我々のような、我々の時点からもはるかに進んだ)機械文明の遺物を利用して小さなコミュニティに分かれ、それぞれ独自の文化を築いている。
かつていた人類は「天使」と呼ばれ、その遺物は今地上に生きる彼らに決して作れない特殊な素材として、例えばステンレススチールは決して錆びない「天使銀」といわれ利用されている。道路はいまも(おそらく北米の)大地を縦横に走っているが、そこを走っていた車は「かつてたくさんの人を殺しかねないにも関わらず使われていた謎の乗り物」扱いである。せやな。
その残された人類のうちの一人の少年「しゃべる灯心草(ラッシュ・ザット・スピークス)、は、自分のコミュニティ(リトルべレア)の中で風変わりな少女「一日一度(ワンス・ア・デイ)」に出会い、彼らの伝説にある「聖人」を目指して自分のコミュニティを離れ、長い長い旅に出る。
「聖人」とは彼らの中では物語を語るものであり、一つの物語を通してすべての物語を語るもの、とされている。
ちなみにタイトルの「エンジン・サマー」は作中序盤で秋ぐらいに数日訪れる暑い日、ということが示されるためようは「小春日和(インディアン・サマー)」が、「インディアン」という言葉が失われた世界において似たような音の用語でまだ生き残っていた「機械(エンジン)」に置き換えられたものであるのがわかる。
ところで「しゃべる灯心草」とか「まばたき」みたいな名前付けってアメリカ先住民族的なのでそれも意識しているんだろう。ジェロニモのアパッチ族としての名前はあくびをする人、みたいな。
この小説は灯心草が「天使」にこれまでの彼の旅を語る形でつづられる。
少年の世界は同心円を描くようにだんだんと広がっていき、最初のリトルべレアから、リトルべレアの比較的近くにいた「聖人」と言われる老人の家、さらに「ドクター・ブーツのリスト」との暮らし、と広がっていき、それを追いながら「この世界」を読み解いていく読者は最後に、彼と共に遠い遠い遥かな旅路を踏破したことを知る。
これは普遍的な「物語」そのものの流れでもあるし、作中で語られる「聖人の物語」でもあるし、この世界の謎の答えそのものでもある。
(この辺のこと、実際「読書体験」をしないと伝わりにくいなあというところまで含めて絶妙である)
読者は「この世界を読み解く」と書いたが、これがなかなか面白いというか、残された人類は、かつての遺物を発掘しながらそこに様々な意味を見出すが、逆に読者はそれが何だったか知っている(なぜならどちらかといえば「天使」に属しているので)。
おそらくアルファベットすら失われている世界の、老ブリンクが必死に解読し「これにはとても重要なことが書いてあると思うんだ」と言っているクロスワードは、我々からしたら単なるパズルで重要なことなど何もないのがわかっている。とか。
こういうところ、実にSFであり、灯心草が主人公というより「語り手」であることに大きな意味があり、物語であること、物語を物語ること、についての美しい物語である。
『バグダードのフランケンシュタイン』アフマド・サアダーウィー
140字以上書く機会、というのも作ろうと思い、そうだブログを作ろう、と思って昨年12月に作ったはいいが、書くことが思いつかなかったので放置していた。
とりあえずブログ1本目だから何にしよう、と気張るのも面倒だったので何か感想を書きたいような本を読み終わったら書くか、とさらに放置して年を越した。
最近全然本が読めないのと一冊が読みかけでも構わず次の本に手を出すので読みかけが大量にあるという癖が災いして2月になった。
ということで何とか読み終わったのが「バグダードのフランケンシュタイン」。
この現代イラクの小説は、日常的に爆破テロが起こり、気が付いたら隣にいた人が肉片になっているかもしれないバグダードの日常に、ある奇怪な、人知を超えた殺人者『名無しさん』が現れるところから始まる。
『名無しさん』と言われるとなんか匿名掲示板かよ。と思わなくもないが、この男*1は爆破テロで粉々になった足や腕を誰彼構わずつなぎ合わせて作られ、さらに爆破テロの犠牲になった男の魂が入った、つぎはぎ人間である。
彼は己のパーツとなった人々の無念を晴らすために、その殺人者を片っ端から殺して回る。なるほどざっくり言えばフランケンシュタインに違いない。
その男を作ったのは古物商ハーディという別にマッドサイエンティストでもなんでもない男である。
彼は、ただあるときからとり付かれたように死体を集め(材料はいくらでも転がっている)数多の、無名の、もはや身元もわからなくなった手や鼻や耳や足から一体の死体を作り上げた。
そこにうっかり魂が入り込んでしまったのは彼の想定外だったが、そこには「大量の顔のない死に顔を与えようという試み」がある。
ハーディはかつて仕事仲間の死体を引き取りにいき「そこから一人分もっていってください」といわれた。爆破テロの被害者たちの体のあちこちが、もはや復元不可能なほどにまぜこぜになって積み上げられた死体置き場で。
今日はどこそこが爆発して何人死んだ、とカウントされニュースで発表されていく死への抗議、みたいな意図があったとは明確に描写されてはいないが、ともかくもハーディはそのあとから一体の死体を作り上げる試みを始めた。
「真の意味での最初のイラク国民」名無しさんはそうして生まれた。
とはいえ長々と古物商ハーディのことを書いたけれども彼の物語ではなく、バグダードに生きる人々のささいな縄張り争いであるとか、老婆の戦争で死んだ息子への執着であるとか、雑誌社に抜擢された若い青年の恋愛模様であるとか、そういう日常と暴力を隣り合わせにおいて、というよりはそれがその時点のバグダードの日常として、物語は進む。
読んでて全編とても面白かったのだが唯一気になるのは街にただ一人の?エジプト人が関西弁でしゃべることかな…いやなんで関西弁?エジプト訛りは関西弁に似ているのか?なんか適当に地元っ子と同じ言葉をしゃべってない感じを出したかったのか?
と毎回なんとなく気が散っていたり。
*1:一人称俺だし、とりあえず自認として男であるらしい